• 2024年11月13日 3:37 AM

環境エピジェネティクス 研究所

Laboratory of Environmental Epigenetics

03.兵庫農科大学(現神戸大学農学部) 後編

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農大はいわゆる田舎の代名詞である「丹波篠山」にあり、学舎は旧陸軍の歩兵師団の跡を使用していました。篠山はかっては小さいが軍都であったようでした。丹波篠山は旧青山藩6万石の城下町でしたが、住民が鉄道の敷設に反対したために、大阪からの福知山線(当時SLで2時間もかかっていた)が街はずれを走っていました。当時はマツタケ、丹波栗、黒豆、山の芋さらにイノシシなどの農畜産物が有名な全くの農村でした。同窓会で篠山を再訪すると 今では立派な高速道路も出来て、大阪もずっと近くなり、立派な観光地となっていることに驚きました。当時人口2万足らずの篠山に700人程度の学生・教職員がいましたので、相当な学都であったわけです。学生は汚れた白衣姿で自転車に乗り、狭い町を我が物顔に往来していました。

専攻は遺伝学とは関係が薄い「家畜生理学研究室」を選び、卒業論文は「メスニワトリのホルモン処理による肥育実験」を山内隆司さん(元アップジョン製薬)と二人でやりました。ホルモン剤の肥育効果は認められたのですが、今から思えば「環境ホルモン」のことなど、まったく考慮されておらず、よくこんな実験をしたものだと思います。この研究にはたしか武田薬品からの委託費が出ていたように記憶しています。実験は半年で簡単に終わったので、当時には珍しく、山内君と分担して英文の卒論を書き上げました。在学中に教養課程の植物学の堀江格郎先生の主催する「分子遺伝学」という講読会に入り、WatsonとCrickのDNA模型などを勉強したことで、分子遺伝学への興味が深まりました。

私には遺伝学の新しい時代が到来したものと考えられました。教養の遺伝学の講義は、後に私が進学することになる名古屋大学の近藤恭司先生の義理の兄である、望月明先生(京都大学の木原均門下)に教わりました。木原先生は、後になって遺伝研に勤務され、国立遺伝研研究所(遺伝研)の三代目所長としての退官講義を内地留学した三島でお聞きする機会がありました。その際の退官講演で「もう一度研究がやれるのなら、微生物の分子遺伝学をやりたい」というお話をお聞きしておおいに驚きました。講義には裳華房の「基礎遺伝学」が使われました。この有名な本の著者である田中義麿先生(昆虫遺伝学)とは、後で遺伝研・形質遺伝部で毎週1回、昼食会でお目にかかることになりました。田中先生の遺伝学のうんちくをお聞きすることが出来たことはなつかしい思い出です。そういえば私は授業では遺伝学が得意で、試験前に友人たちに遺伝学を解説していましたが、試験の結果は私が「可」で、教えた友人が「優や良」であったことには、正直腹が立ちました。

卒業前に家畜育種学の福島教授から、「農大も近々国立移管されて神戸大学農学部になる。ついては君は京都大学の大学院に行ってくれないか、向こうにはすでに話が付けてあるから、受験さえしてくれればよい」と言われ驚きました。京都大学は私が受験に失敗した大学であり、最初は行くことも考えましたが、その講座は「家畜繁殖学」であり、私が希望する遺伝・育種学ではないことが問題でした。その教授の西川義正先生(後に帯広畜産大学学長)は「家畜の人工授精」の世界的な権威であり、すでに学士院賞を取られていました。じつは福島先生の「育種学講座」には、結核で休職中の辻壮一先生がおられたので、育種学ではなく、当時農大では講座がなかった「家畜繁殖学」を勉強してこいというものでした。いろいろ考えましたが、やはり遺伝学をやりたくて、この話は丁重にお断りしました。

現在では、ほとんどすべての分野で、何らかの形で遺伝学的な思考や技術を用いており、おそらくは京都大学の「家畜繁殖学」へ行っても何らかの形で「遺伝学」に携わることになったと思うと、この選択を後になって後悔しました。このことが祟ったのか、私にはついぞ大学へ就職することは出来ませんでした(選考に二、三箇所に応募したことはありますが、どこからも採用されませんでした)。

私はやはり「遺伝学」をやりたくて、大阪大学理学部生物学の「遺伝研究室」の大学院を受験しました。学科試験の成績(物理と化学が必須でした)が悪かったので、とうてい合格は駄目なことは分かっていましたが、最後の面接試験まで受験してみました。その折に、主任の吉川秀男教授から、「研究室の修了生に藤尾芳久君という人がおり、彼も農大の出身でこの研究室で学位を取り、今名古屋大学の「家畜育種学」の教官である。そこでも遺伝学の勉強は出来る。ちょうど君は名古屋の出身だから丁度いいではないか」と言われ、秋に名大大学院農学研究科を受験してみました。

吉川先生は京大の理学部のご出身ですか、阪大に来るまでは、愛知県の武豊にあった、農林省の蚕糸試験場勤務でした。そこで、カイコを用いて、一遺伝子―一酵素説の論文をNature誌に投稿したのですが、郵便船が沈没して、届かなかったそうで、一遺伝子―一酵素説はアカパンカビを用いたBeadleとTatumの業績とされ、Nobel賞を受賞したという経緯があることを後になって藤尾先生からお聞きしました。受験をした安城の農学部は名古屋市内の東山への統合を進めている最中で、その後私が修士課程に入った年に移転しました。引っ越しでマウスのケージなどを三輪トラックで運搬したことも愉しい思い出です。

この受験も奇妙なもので、私は農学部を次年の三月に受験するつもりで、理学部を目標にして語学(英語とドイツ語)と生物学をよく勉強してきましたが、農学系の専門科目は全く勉強していませんでした。案の定、語学の出来は良かったのですが、専門が全く出来ず、当然落第したものだと思って篠山に帰りました。後で聞いたのですが、私の成績では語学はずいぶん良かったのですが、専門科目が殆ど零点だったとのことでした。当時の大学院の選考は大らかなもので、合否の決定は教授の一存で決められており、近藤先生は、「専門は後で勉強すれば出来るようになる。語学の出来が良いので合格にしよう」と決まられたということをお聞きしました。試験翌日に藤尾先生から「合格」の電報をいただきましたが、半信半疑でした。

しかし、名大大学院の修士課程では「二ホンウズラの遺伝学と系統育成」というテーマを与えられ、苦悩の2年間を送りました。まだ、系統化されていないウズラの飼育集団に目立った変異個体がなかなか見つからず、修士課程の2年間では成果が出そうありませんでした。いくらウズラの世代期間が短いからといっても修士論文は纏まりそうもありませんでした。そこで急遽テーマを変更して、メスウズラの産卵に伴う血清成分の変化を、免疫電気泳動(当時は最先端の技術でしたが)によって解析したもので修士論文をやっと書き上げました。ウズラが産卵に伴って、卵黄成分が血清に蓄積する現象を解析したものでした。皮肉にも、この産卵に伴う生理現象は、明らかに「家畜繁殖学」の分野であり、京都大学大学院の「繁殖学」を蹴ってきた私にとっては、実に皮肉なめぐり合わせでした。