先日、俳句の吟行会があり、大磯の「吉田 茂邸」を訪問した。私にとっては「吉田 茂」は記憶にある戦後最初の首相であるが、自民党の総裁でもあるので、これまでほとんど関心を払ってこなかった。この広々とした吉田五十八が設計した和風の建物は、火災で一度ほぼ全焼したが、地元の方々の協力で、平成29年に再建されたということだ。よくできた和風建建築である。
吉田 茂は東大を出て、外交官となったが、当時は外交官としては、日の当たらない中国各地に赴任したという。しかし昭和3年には、外務次官としてロンドン海軍軍縮会議に出席している。日本が国際的に孤立を深めて行く中で、その外交姿勢に異を唱えるようになった、その後、日本の日独伊三国軍事同盟にも異を唱えたことから、軍部ににらまれて、憲兵隊に拘束されたまま戦後を迎えたという。私がこれまで考えてきた以上に吉田 茂は自由人であったようだ。
昭和21年4月の占領下での総選挙、鳩山一郎の自由党が第一党になったが、鳩山は公職追放をされたので、吉田が総裁となって第一次吉田内閣が誕生した。
また、戦前からの大日本帝国憲法改正を行い、国民主権、戦争放棄、基本的人権を根幹としたに日本国憲法を公布、施行した。
その後、吉田内閣は第5次まで続いたが、有名な「バカヤロー解散」によって昭和29年12月に終焉した。吉田内閣については、私はこれまで保守系の内閣ということでほとんど評価をしてこなかった。しかし、昨今の日本政府のアメリカべったりの政治姿勢を眼に辺りにすると、日本の国防をアメリカの軍事力に任せ、日本はひたすら経済の回復をめざしたという、吉田の政治姿勢は戦後の日本のかじ取りとして貴重なものであったように思われる。
高校の同期で、スウェーデン大使になった大塚清一郎さんは、著作の中で、吉田 茂は毎年外交官試験に合格した若者たちを私邸に招待して、外交官としての心得を説いたということを買いている。吉田 茂はあくまでも「外交官」であったようだ。いま、ウクライナやパレスチナで無益な戦乱が続いているが、外交の力によってそれらをやめさせることはできないものだろうか。
宰相のくゆらす葉巻柿たわわ 徹 (04/11/18)