先日ある講演で、ハーバード大学の岸 義人先生が「パリトキシン」の全合成を完成された(1994)ということを聞いた。これには2の64乗個の異性体があるといい、特定の鏡像異性体を合成することは至難の業であったという。「岸先生」と聞いて、もう50年も前の名古屋大学農学研究科での出来事を思い出した。当時先生は、生物有機化学研究室の助教授で「フグ毒テトロドトキシン:TTD」の全合成に精魂を傾けておられた。「パリトキシン」は腔腸動物由来の毒物でTTDよりもずっと毒性が強い。
当時TTDの全合成は、合成化学でも超難関なものとされていたらしい。合成では、何段階もの反応の途中で活性がある部分と活性がない部分とを分画しながら、合成を続けてゆくのだが、活性部分の選択にはマウスが死ぬかどうかで決めるしかないという。ちなみにかっては、20gのマウス一匹を殺すTTDの量を「1マウス単位」と呼んでいたという。厳密を旨とする化学としては、すごくアバウトな単位であった。
ある日、 マウス小屋に岸先生の院生が「ネズミ[]をください」と言ってきた。かなり合成は進んでいるらしく、かなりの意気込みだった。この時、近藤先生がおられ、「君、マウスと言っても、系統、性別、週齢など様々だが、一体どのマウスが欲しいのかね」と質問された。院生は絶句してしまった。しばらくして、岸先生が直接来られ、「先生、早くネズミをください」と言われて、やっと決着が着いた。
岸先生は、TTDの全合成に成功し(1972)、その後Harvard大学の教授に栄転された。それも偉大な化学者のLoeb の名の付いた冠教授である。岸先生も素晴らしい方だが、それに応対した近藤先生も先生らしかった。私はその後、毒性学の分野に転出し、動物の系統、性差、週齢などによって毒性発現が全く異なってしまうことを身に染みて体験した。私は化学には疎く、分析化学なら機器を使うことで何とか出来るかもしれないが、合成化学は全くお手上げである。名古屋大学農学部関係者でノーベル賞がいただけそうな研究者は岸義人先生だけであろう。
四季のなきマウス室にも新年来る (12/04/20)