• 2024年11月1日 10:01 AM

環境エピジェネティクス 研究所

Laboratory of Environmental Epigenetics

02.兵庫農科大学(現神戸大学農学部)前編

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私の大学受験の結果は目覚ましいものではありませんでした。名古屋の名門校であった旭丘高校を卒業しましたが、現役では神戸大学経済学部に振られて、京都での浪人生活を1年間送りました。

夏の間には、当時門跡であった親類のご厚意で、三千院にも寄宿させていただいくという貴重な経験もしました。一浪後は京都大学の経済学部を受けて失敗し、公立の兵庫農科大学(農大)の畜産学科と大阪外語大学(現大阪大学外国語学部)のロシア語科には何とか合格しました。

農大には当時同じ兵庫県立であった、神戸医科大学(後に神戸大学医学部となり、Nobel賞の山中教授が卒業された)の医学進学課程(医進)を受験し、それには落第しましたが、やっと畜産学科に合格したという経緯があります。医進は同じく県立の姫路工大(現在は兵庫県立大学)にもありました。農大は戦後の食糧難に対して急遽、何の母体も持たずに設立され、最初は理農学部を作ることが考えられていました。京都大学の若手や台北帝大などの退職者が多く設立に参画したようです。畜産学科は和牛の飼育が盛んで神戸牛の素牛を生産する但馬地方からの要望で急遽増設されたとのことでした。

京都大学の経済学部と大阪外国語大学(外大)のロシア語科を受験したのは、まだ残り火がくすぶっていたマルクス経済学を志向していたことによります。父親(東京大学経済学部出身)は、このことを察していたらしく、強く農大への進学を薦めました。現役で受けた神戸大学の経済学部は近代経済学の西の牙城であったことを考えると、この間に私は大きな思想的な転向をしたことになりますが、今となってはその理由は覚えていません。私も入学前に大阪外大の時間割が送られてきて、授業の半分以上が外国語の授業であることを見て、外大に進学することに疑問を感じ、思い切って農大への進学を決意しました。

それに当時大阪外大は生野区にあり、いわゆるコリアンタウンに近く、思い描いていた学生生活とは縁遠い環境でした。私にはこれが文科系と理科系との大きな分かれ道でしたが、あまり深く考えることなく理科系の片隅にある農学部を選んだということになります。農大には前に述べたように、教養課程を終えると、神戸医科大学への編入試験があり、毎年数名が医進へ編入しました。開業医の子息がほとんどのようでした。入学当時、私もその復活コースを考えていましたが、いまさら受験勉強のようなことはしたくないと考え直していました。

牧歌的な牧歌的な農大での学生生活を、私は思いのほか享受していたようです。圃場で麦わら帽子とよごれた白衣の教官や学生が黙々とに観察データを取っているのを見ると、こんな生活もいいのかなと考え始めていました。私は就職することなどまったく考えずに、漠然と大学院に進んで、何か生物学の研究をしてみたいと思うようになりました。また私は左利きで、当時左利きは手術などの関係で医者には向かないといわれていました。私はまた、医学部を出るとすべての医師は臨床医学に進むものと考えており、基礎医学という分野が存在することはほとんど知りませんでした。

後年、安全センターに就職し、医学士(M.D.) 支配の下に絶対服従という状況に置かれてはじめて、この私の選択が正しかったのかどうか再考されられました。また、私が現役では神戸大学を失敗したのに、農大が神戸医大と共に神戸大学に移管され、神戸大学農学部になったことで、私は神戸大学のOBとなっているのも何だか妙なことです。